飯舘村の猫マメの幸せについて
福島県飯館村にマメという名の猫が暮らしている。
飯舘村で犬猫に給餌をしながら写真を撮っているが、マメは特に気になる存在だ。
何度か会ううちに、僕の顔を見ると自分から近寄ってきて、ゴロ~ンとお腹を見せて歓迎してくれるようになった。
人懐っこいマメを見ていると、飼い主さんにとてもかわいがられ愛されていたことがわかる。
飯舘村は、東京電力福島第一原発の爆発事故により放射性物質に汚染された。
2011年4月に計画的避難区域に指定され、その後すべての村民が避難した。
以降、住人の立ち入りは可能だが、居住は禁止されている。
しかし、住人が避難した後も、多くの犬や猫たちは村で暮らし続けている。
住人の避難先の仮設住宅などで、ペットとの共生が認められていないことが犬猫が村に残された理由であるが、住人の避難から1年以上が経った今でも同じ状況が続いていることは、行政が動物の保護や避難に積極的ではないことの現れだろうと僕は考えている。
マメが暮らしているのは、飯舘村の中でも比較的放射性物質による汚染の酷い地域だ。
野球場一個分以上はある広い敷地の中で、ほとんどの時間をマメは一人っきりで過ごしている。
人が暮らしていない家からは、明かりが漏れることがなく、日が沈めばあたりは闇に包まれる。
誰もいない真っ暗な世界で、一人で過ごすことを想像してみた。
「すぐにでも明るい人のいる場所に行きたくなる」
自分ならそう感じるだろう。
だから人懐っこいマメに会った当初、
「こんなに人が好きな子がずっと一人で寂しい思いをしているのは、可哀想すぎる。。。すぐにでも保護してあげたい。」
と考えていた。
★マメの見ている風景
マメの家は山の中腹にあり、とても眺めがよい。南側は遮るものがなく美しい山々を望む。
しかし、先日飯館村を訪れた際に、マメの暮らすお宅で飼い主のおじいちゃんにお会いして以来、少し考えが揺れている。
おじいちゃんは現在83歳。
福島市内の避難先から、数日おきにスクーターに乗って1時間の道のりを経て、飯舘村の自宅にマメの世話をしに戻ってきている。
おじいちゃんの滞在中、マメは常におじいちゃんの姿が見える場所でくつろいでいた。
数日に一回、昼間の数時間しか一緒に過ごせなくなってしまったが、おじいちゃんがいる時のマメは、とてもうれしそうに幸せそうに見えた。
おじいちゃんも、マメのことがかわいくて仕方ないようで、やさしいまなざしでマメを見つめたり、愛おしそうに撫でたりしていた。
震災前までは、おじいちゃんは、おばあちゃんと息子さんと三人で暮らし、牛を飼い、牧草を栽培して暮らしていた。
戦後この地に移り住み、長い年月をかけて開拓してきた土地だという。
おじいちゃんは、「シーベルトとかベクレルとか、よくわかんね」と自宅敷地内で放射線量の計測はしていないそうだが、お隣のお宅の牧草地では、今でも空間放射線量は10マイクロシーベルト超が計測されていた。
近い将来、一軒一軒の家の除染が行われる予定であり、現在の計画では『敷地+外周20mの除染を行う』ことになっている。
しかし、宅地や農地を除染したとしても、村の面積の約75%を占める山林から再び放射性物質が飛来するだろうと考え、除染の効果を疑問視する人は少なくない。
そして、農業、畜産、酪農など土地に根付いた産業を生業にしていた村民が多く、仮に放射線量が下がって村に戻ることができたとしても、一度放射能に汚染されてしまった土地で採れた食物は「風評被害で売れない」と、再び同じように仕事はできないだろうという声も多く耳にする。
現在の放射線量を考えると、おじいちゃんの避難生活は、まだ当分のあいだ続くことになるだろう。
現在の避難先は、やはりペットとの共生が許されておらず、マメもひとりぼっちで過ごす時間の長い日々に、まだしばらく耐えなければならない。
おじいちゃんの帰村の負担や、マメの寂しさを思えば、やはりマメを保護して寂しくない環境で暮らせるようにするのも、ひとつの考え方だと思う。
しかし、一方でおじいちゃんのマメへの愛情、おじいちゃんを慕うマメの気持ちを思うと、おじいちゃんとマメを引き離してしまうのが、果たしてマメの幸せにとって正しいことなのかとも考えてしまう。
答えのでない疑問を前にすると、
「飯舘村が放射性物質に汚染されなければ、おじいちゃんもマメも寂しい思いをしなくてすんだのに。。。」
「原発事故がなければ。。。いや、原発がなければよかったのに」との思いに至らずにはいられない。
原発事故から一年以上が経った今でも、放射性物質の影響で、長い時間をかけて築きあげてきた生活を壊され、辛い思いをしている人や動物たちがたくさんいる。
そのことを忘れずに、今自分にできることをやり、自分たちの未来について考えていきたい。
少なくとも同じ過ちはもう繰り返してはならないと、おじいちゃんとマメのことを思うたびに感じる。
★犬猫救出プロジェクトの大網直子さんと飯館村を訪れた際に、一緒にマメに会いに行った。
しばらく大網さんにかわいがってもらい、マメもご満悦。
大網さんには「もしもおじいちゃんが、マメの世話が大変になったら、マメを預かったり引き取ったりすることもできますよ、と話してみたら。」とアドバイスをいただきました。
今度、おじいちゃんに会ったら話をしてみます。
ありがとうございましたm(_ _)m
飯舘村で犬猫に給餌をしながら写真を撮っているが、マメは特に気になる存在だ。
何度か会ううちに、僕の顔を見ると自分から近寄ってきて、ゴロ~ンとお腹を見せて歓迎してくれるようになった。
人懐っこいマメを見ていると、飼い主さんにとてもかわいがられ愛されていたことがわかる。
飯舘村は、東京電力福島第一原発の爆発事故により放射性物質に汚染された。
2011年4月に計画的避難区域に指定され、その後すべての村民が避難した。
以降、住人の立ち入りは可能だが、居住は禁止されている。
しかし、住人が避難した後も、多くの犬や猫たちは村で暮らし続けている。
住人の避難先の仮設住宅などで、ペットとの共生が認められていないことが犬猫が村に残された理由であるが、住人の避難から1年以上が経った今でも同じ状況が続いていることは、行政が動物の保護や避難に積極的ではないことの現れだろうと僕は考えている。
マメが暮らしているのは、飯舘村の中でも比較的放射性物質による汚染の酷い地域だ。
野球場一個分以上はある広い敷地の中で、ほとんどの時間をマメは一人っきりで過ごしている。
人が暮らしていない家からは、明かりが漏れることがなく、日が沈めばあたりは闇に包まれる。
誰もいない真っ暗な世界で、一人で過ごすことを想像してみた。
「すぐにでも明るい人のいる場所に行きたくなる」
自分ならそう感じるだろう。
だから人懐っこいマメに会った当初、
「こんなに人が好きな子がずっと一人で寂しい思いをしているのは、可哀想すぎる。。。すぐにでも保護してあげたい。」
と考えていた。
★マメの見ている風景
マメの家は山の中腹にあり、とても眺めがよい。南側は遮るものがなく美しい山々を望む。
しかし、先日飯館村を訪れた際に、マメの暮らすお宅で飼い主のおじいちゃんにお会いして以来、少し考えが揺れている。
おじいちゃんは現在83歳。
福島市内の避難先から、数日おきにスクーターに乗って1時間の道のりを経て、飯舘村の自宅にマメの世話をしに戻ってきている。
おじいちゃんの滞在中、マメは常におじいちゃんの姿が見える場所でくつろいでいた。
数日に一回、昼間の数時間しか一緒に過ごせなくなってしまったが、おじいちゃんがいる時のマメは、とてもうれしそうに幸せそうに見えた。
おじいちゃんも、マメのことがかわいくて仕方ないようで、やさしいまなざしでマメを見つめたり、愛おしそうに撫でたりしていた。
震災前までは、おじいちゃんは、おばあちゃんと息子さんと三人で暮らし、牛を飼い、牧草を栽培して暮らしていた。
戦後この地に移り住み、長い年月をかけて開拓してきた土地だという。
おじいちゃんは、「シーベルトとかベクレルとか、よくわかんね」と自宅敷地内で放射線量の計測はしていないそうだが、お隣のお宅の牧草地では、今でも空間放射線量は10マイクロシーベルト超が計測されていた。
近い将来、一軒一軒の家の除染が行われる予定であり、現在の計画では『敷地+外周20mの除染を行う』ことになっている。
しかし、宅地や農地を除染したとしても、村の面積の約75%を占める山林から再び放射性物質が飛来するだろうと考え、除染の効果を疑問視する人は少なくない。
そして、農業、畜産、酪農など土地に根付いた産業を生業にしていた村民が多く、仮に放射線量が下がって村に戻ることができたとしても、一度放射能に汚染されてしまった土地で採れた食物は「風評被害で売れない」と、再び同じように仕事はできないだろうという声も多く耳にする。
現在の放射線量を考えると、おじいちゃんの避難生活は、まだ当分のあいだ続くことになるだろう。
現在の避難先は、やはりペットとの共生が許されておらず、マメもひとりぼっちで過ごす時間の長い日々に、まだしばらく耐えなければならない。
おじいちゃんの帰村の負担や、マメの寂しさを思えば、やはりマメを保護して寂しくない環境で暮らせるようにするのも、ひとつの考え方だと思う。
しかし、一方でおじいちゃんのマメへの愛情、おじいちゃんを慕うマメの気持ちを思うと、おじいちゃんとマメを引き離してしまうのが、果たしてマメの幸せにとって正しいことなのかとも考えてしまう。
答えのでない疑問を前にすると、
「飯舘村が放射性物質に汚染されなければ、おじいちゃんもマメも寂しい思いをしなくてすんだのに。。。」
「原発事故がなければ。。。いや、原発がなければよかったのに」との思いに至らずにはいられない。
原発事故から一年以上が経った今でも、放射性物質の影響で、長い時間をかけて築きあげてきた生活を壊され、辛い思いをしている人や動物たちがたくさんいる。
そのことを忘れずに、今自分にできることをやり、自分たちの未来について考えていきたい。
少なくとも同じ過ちはもう繰り返してはならないと、おじいちゃんとマメのことを思うたびに感じる。
★犬猫救出プロジェクトの大網直子さんと飯館村を訪れた際に、一緒にマメに会いに行った。
しばらく大網さんにかわいがってもらい、マメもご満悦。
大網さんには「もしもおじいちゃんが、マメの世話が大変になったら、マメを預かったり引き取ったりすることもできますよ、と話してみたら。」とアドバイスをいただきました。
今度、おじいちゃんに会ったら話をしてみます。
ありがとうございましたm(_ _)m
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by nekotoru
| 2012-06-27 20:57
| 福島 飯舘村
飯舘村で会った老犬「やっと会えたのに、もう帰っちゃうんだね。。。」
東日本大震災から一年の2012年3月10日、福島県の飯舘村で一匹の老犬が亡くなった。
東京電力福島第一原発の爆発事故により放出された放射性物質による汚染のため、昨年4月22日に村内全域が”計画的避難区域”に指定され、5月下旬までに村民の方々は村外への避難を余儀なくされた。
住民の方々の避難先の仮設住宅などの多くは、ペットとの同居ができない環境であったため、多くの飼い主は犬や猫を放射線量の高い飯舘村に残して避難せざるをえなかった。
ただし飯館村は、原発20km圏内の警戒区域とは異なり立入が制限されていないため、飼い主さん達は避難先から犬や猫の世話をしに村に戻ってきたり、村内を毎日パトロールする見守り隊の方に世話を依頼するなどして、犬や猫たちの命をつないできた。
3月10日に亡くなった老犬も、十何年も飼い主さんと一緒に過ごした生活を原発事故により一変させられてしまった。
彼は、生涯最後の10ヶ月程をいったいどのような思いで過ごしていたのか。。。
僕が彼にはじめて会ったのは、彼が亡くなる一週間前。。。
飯舘村で犬猫の給餌活動をするボランティアチームに同行させてもらった時である。
帰り際に後をついてくる姿、少し寂しそうな眼差し、
「やっと会えたのに、もう帰っちゃうんだね。。。」
「でもしょうがないよね」
そんな彼の心の声が聞こえたような気がした。
村を離れざるを得なくなった人々はもちろんだが、
人間に限りない癒しを与えてくれる、たくさんの愛おしい命たちもまた、
原発事故から一年が過ぎた今も厳しい状況に置かれ続けている。
飯館村には、3月いっぱいは冷たい雪が降ると聞いた。
せめて少しでも早く、村で生き続ける命たちが春の暖かさに包まれるように願わずにはいられない。
マル、お疲れさま。
雪深い3月の飯館村の風景
街灯がなく日が落ちると辺りは真っ暗になる。
人々の生活が営まれていた頃は、家の窓から灯りが漏れていたのだろう。
寒くて真っ暗な冬の夜を想像すると、悲しい。。。
原発で電気をつくっていた福島には明かりが灯らない場所がある。。。
「やっと会えたのに、もう帰っちゃうんだね。。。」
そっちの世界で元気に過ごしてね。
#
by nekotoru
| 2012-03-13 19:27
| 福島 動物
「福島を風化させず、日本の未来を考えよう」希望の牧場・吉沢牧場長、渋谷ハチ公前街頭活動12・11
東日本大震災から9ヶ月目の12月11日(日)東京 渋谷駅のハチ公前広場で、福島原発20km圏内浪江町の『希望の牧場』吉沢正己牧場長が、牧場のこと警戒区域内の農家や動物たちのこと、そして日本の未来への思いを、渋谷駅前スクランブル交差点を行き交う途切れることのない人波に向って訴え続けた。
時間の経過とともに人々の意識や記憶は風化していくものではあるが、いくらなんでも早すぎるのではないかと思えるスピードで、福島が収束したことにされていく。。。
被災地では、今も現在進行形で地震や津波による破壊からの復興、そして放射能汚染による被害との戦いが続いているのに。。。
吉沢さんの声に耳を傾け、目を向ける人が少数派であり、圧倒的多数の人が何も聞かなかった、何も見なかったように通り過ぎる。。。
あの日から9ヶ月目の渋谷駅前で、僕は少し悲しくなった。
吉沢さんの牧場は、東京電力福島第一原発から14キロ地点に位置する。
現在でも放射能汚染が酷く、立ち入りが禁止されている20km圏内・警戒区域の中にある。
原発の爆発により、牧場の敷地内の自宅に住めなくなり、大切に育ててきた牛たちも市場での価値を失ってしまった。
吉沢さん自身も仮設住宅への移住を余儀なくされ、そこから牛たちの世話のため牧場に通っている。
大きな被害を受けながらも、「警戒区域内の牛たちは殺処分」という国の方針に異を唱え、牛たちの命を守るために今も戦い続けている。
牛たちの世話をするにはお金が必要になる。
牧場の敷地の空間線量はいまだ高いままである。
牧場の除染は可能なのか。
吉沢さんの前にはクリアしなければならない問題が山積みである。
しかし、吉沢さんは力強く戦い続けている!
「命を大切にする優しい日本をつくろうよ!
将来の世代のために、原発がなくてもやっていける日本をつくろうよ!
そのためにみんなでがんばろうよ!」
無関心が多数派に見える東京の人々にさえ、優しいメッセージを送り続けてくれる吉沢さんに心より感謝をしたい。
そして、ひとりでも多くの人に「フクシマは何も終わっていない」ことを伝えなければいけないと、改めて感じた。
●命をそまつにする国の方針はおかしい
警戒区域内で今も生き続けている牛は、1000頭以上にのぼると見られている。
吉沢さんの希望の牧場でも、300頭の牛たちが今も元気に生き続けている。
「生き残った牛たちは、福島原発事故による被曝の実態を科学的に調査をする貴重なサンプルになる。」
吉沢さん達が実現を目指す希望の牧場プロジェクトとは
”被曝してしまった牛たちの命を無意味に奪うのではなく、動物の被曝研究、除染研究の目的で生かす”
餓死でも殺処分でもない、家畜たちが生きる第三の道をつくり命を守るというもの。
吉沢さん達の継続的な活動により、全国から多くの支援が集まり希望の牧場の牛300頭については、冬を越すためのエサ代を賄える目処がたった。
そして、吉沢さんは、牛たちの命を守りたいと願っている仲間の畜産農家や酪農家への援助の必要性も強く感じている。
しかし、多くの畜産農家や酪農家の「牛たちに命を全うして欲しい。」という願いに反し、警戒区域内で生き続けている家畜に対する国の方針は、殺処分である。
「国や農水省が生き残った1000頭の牛たちを、みんな死んでしまえ、邪魔者は片付けろと言っているが、認められない。
多くの農家が牛を置いて逃げざるを得なかった、餓死をさせてしまったと、避難所で夜も眠れないほど苦しんでいる。
しかし、いま餓死をまぬがれた牛に対する殺処分が始まっている。
命をそまつに見捨てる、そんな国の方針はおかしいと思う。
生き残った牛は全て殺処分しろ、そんな酷い仕打ちを絶対に認めないために、みなさんの応援をお願いいたします。」
吉沢さんは、国の方針を認めずこれからも戦い続けていく、そして国の方針を変えるためには、多くの人達の声が必要であると語る。
●日本の未来をみんなで考えましょう!
日本の国会では原発輸出を可能にするための原子力協定の承認がなされ、いわゆる原子力ムラ、原子力マフィアが息を吹き返そうとしている。
一方、被災地では多くの人がいまだに行方不明のまま、地震や津波の被害の爪痕が街中に残されている。
そして、原発からの放射能漏れにより、原発から20km圏内は立入禁止とされ、住人は自分の家に戻ることもできない。
20km圏の外でも、放射能被曝の影響から逃れるため、多くの人達が避難生活を強いられている。
テレビや新聞の報道を見ていると、3.11の大災害とそれに続く東京電力福島第一原発の爆発・放射能漏れ事故は収束しているかのように錯覚することがある。
しかし、フクシマは何も収束していない。
「いまみんなが福島を忘れようとしている、風化がはじまっている。」
福島のことをみんなが忘れてしまえば、おそらく全国の原発は次々に再稼働されていくだろう。。。
それは、全国どこでもがフクシマになってしまう危険性を持つことを意味する。
「日本全国の老朽化の進んだ原発が心配です。
福島と同じような事故がどこで起こってもおかしくありません。
子供たちや孫たちの未来に、どうしたら安心して暮らせる社会が作れる、立ち止まっていまみんなで考えようじゃありませんか。
福島県はかわいそうだという、そんな気持ちはいりません。
それよりもみんなで考えましょう。
原発がなくてもやっていける、日本の未来の姿をみんなで考えましょう。」
吉沢さんは第二のフクシマをつくらないためにも、福島のことを忘れず、みんなが自分の問題として日本の未来を考えることが必要と訴えた。
●12月11日 吉沢さんアピール
福島県浪江町で今なお300頭の牛を飼っている牧場です。
警戒区域に残された牛たちが水もなく、エサもなく次々と餓死をして倒れていった、そういう無残な姿を見てください。
福島原発の事故で大変な被害を受け、飼っていた何百頭あるいは千頭もの家畜たちの命が奪われました。
警戒区域20km圏内で暮らしていた私たちは、家に帰ることさえ許されません。
浪江町、双葉町、大熊町、富岡町は日本におけるチェルノブイリとなってしまいました。
家に帰ることも許されず、仕事を失い、未来への展望さえ失おうとしています。
東京電力福島原発の大事故のせいで、私達に希望はありません。
酪農家のみんなが、牛を置いて逃げざるをえなかった。
この無念の気持がこもった写真を見ていってください。
今、農家のみんなが苦しんでいます。
多くの農家が牛を置いて逃げざるを得なかった、餓死をさせてしまったと、避難所で夜も眠れないほど苦しんでいる。
しかし、いま餓死をまぬがれた牛に対する殺処分が始まっています。
命をそまつに見捨てる、そんな国の方針はおかしいと思います。
みんなが食べる牛肉をつくり、みんなが飲んでいるおいしい牛乳をつくり、米をつくり野菜をつくり、果物をつくり。。。農業の盛んな福島県が今苦しんでいます。
原発からの放射性物質に汚染され、福島県の明日が見えません。
東京電力と国に対し、僕達は残りの人生をかけこの大損害の償いを求めていきたいと考えています。
僕の牛舎では、300頭を超える牛たちが今も元気よく生きております。
原発の放射能によって経済的な意味はゼロになりました。
しかし、この牛たちは放射能の被曝の影響調査の、体内からのセシウムの除染の効果を示す生きた証人であります。
放射能に汚染されたかもしれませんが、この牛たちが元気よく生きている限り、福島原発の事故はいつまでも語り継がれると思います。
しかしながら、この牛たちを殺処分せよという農水省の指示がいま出されております。
今だに原発から20キロ圏内の警戒区域には1000頭を超える牛達が元気よく生きているんです。
しかし、この牛たちは邪魔者として殺されようとしています。
たくさんの犬猫ペットは救出をされました。
なのに、牛や豚については殺処分
矛盾しております。
同じ命あるものをどうして助けることができないのか。
私たちは、餓死でもない殺処分でもない、第三の道としてこの牛たちの生きる意味をみなさんに訴えております。
日本獣医生命大学が、僕の牧場でセシウムの汚染状況を調べ、その牛たちからセシウムを抜くための被曝、除染の研究を行いました。
12月の下旬には、その研究成果が公表されます。
被曝はしたけれども、僕達は負けない。
この放射能と戦いながら、浪江町の復活のために頑張っていきたいと思っています。
チェルノブイリと同じように死んだ町にすることはできません。
希望の牧場プロジェクトに、どうぞみなさんの応援をお願いいたします。
福島が苦しんでいる時、僕は言いたい。
福島の電気のおかげで、ゆたかな便利な暮らしをしていたのに、
いまみんなが福島を忘れようとしている、風化がはじまっている。
おかしいと思います。
いまも福島は苦しんでいます、差別をされています。
放射能汚染で、いま福島県の明日が見えません。
日本全国の老朽化の進んだ原発が心配です。
福島と同じような事故がどこで起こってもおかしくありません。
来年春には全国の原発のほとんどが停止します。
原発がなくてもやっていける日本を、今こそみんなで考えましょう。
子供たちや孫たちの未来に、どうしたら安心して暮らせる社会が作れる、立ち止まっていまみんなで考えようじゃありませんか。
福島県はかわいそうだという、そんな気持ちはいりません。
それよりもみんなで考えましょう。
原発がなくてもやっていける、日本の未来の姿をみんなで考えましょう。
放射能から逃げ惑う人がたくさんいる、福島県では既に6万人の人が避難をしました。
子供たちやお母さんが、放射能の影響が心配で福島にいられないと、みんな逃げ出してしまいました。
東海大地震が起こったら浜岡原発は、福島原発の二の舞。
放射能が飛び散り、放射能汚染から東京のみんなが逃げまどう。。。そういう光景が起こり得ることを考えようじゃありませんか。
私達はいま、立ち止まって考え、福島原発が起こした今回の事態を忘れてはなりません
電力会社の金儲けのために、国民みんなが放射能に巻かれるような、そういう事態を再び起こしてはなりません。
私の牧場の牛たちは、福島で起こった事態をみんなに語り継いでいく、生きた証人です。
福島原発はまだ何も終わっておりません。
燃料は溶け落ち、再臨界が起こる可能性もあります。
安定冷却停止なんてウソです。
危ない原発に頼っていく日本に未来はありません。
福島原発の爆発の影響で、私の周りでどれだけ多くの牛たちが死んでいったか、見てください。
そして、みんなで一緒に考えていきましょう。
原発がなくてもやっていける日本を、今こそみんなで考えましょう。
日本の明日、子供たち孫たちのことをみんなで考えましょう。
希望の牧場ホームページ
#
by nekotoru
| 2011-12-24 12:58
| 福島 動物
あの日から8ヶ月半、2011年11月28日に南相馬市で見たもの その2
海から1~2kmの街中には、津波に破壊された家が数多く残されている
海から2kmほど内陸までは、全てを破壊されてしまった。
今も住民やボランティアによる片付けが続けられており、海沿いに瓦礫が集められている。
東北電力原町火力発電所付近にも津波被害の爪痕が・・・
消防車は、見た時一瞬元が何だったのかがわかないほどに激しく無残に破壊されていた。
今回、撮影をしてまわった地域、特に海に近いところでは多くの被害者が出ている。
今だに行方不明のままの方たちもたくさんいる。
しかし、世の中では少しずつ福島のことは忘れ去られようとしているように感じる。
今回、南相馬市の今を短時間ではあったが目の当たりにし、これから長い時間をかけて復興していく福島をはじめとした被災地のことを、伝え続けなければいけないと強く感じた。
僕は、ジャーナリストでもなく、報道カメラマンでもない、
普段は猫や商品の撮影をしているカメラマンだけれども、
だけど僕にもできることはきっとあるだろうと思う。
それをやることが、今日本に生かされている僕の役割のように感じた。
『あの日から8ヶ月半、2011年11月28日に南相馬市で見たもの その1』へ戻る
海から2kmほど内陸までは、全てを破壊されてしまった。
今も住民やボランティアによる片付けが続けられており、海沿いに瓦礫が集められている。
東北電力原町火力発電所付近にも津波被害の爪痕が・・・
消防車は、見た時一瞬元が何だったのかがわかないほどに激しく無残に破壊されていた。
今回、撮影をしてまわった地域、特に海に近いところでは多くの被害者が出ている。
今だに行方不明のままの方たちもたくさんいる。
しかし、世の中では少しずつ福島のことは忘れ去られようとしているように感じる。
今回、南相馬市の今を短時間ではあったが目の当たりにし、これから長い時間をかけて復興していく福島をはじめとした被災地のことを、伝え続けなければいけないと強く感じた。
僕は、ジャーナリストでもなく、報道カメラマンでもない、
普段は猫や商品の撮影をしているカメラマンだけれども、
だけど僕にもできることはきっとあるだろうと思う。
それをやることが、今日本に生かされている僕の役割のように感じた。
『あの日から8ヶ月半、2011年11月28日に南相馬市で見たもの その1』へ戻る
#
by nekotoru
| 2011-12-02 19:30
| 福島 被害
あの日から8ヶ月半、2011年11月28日に南相馬市で見たもの その1
2011年11月28日、僕はあの日以降はじめて福島に行った。
南相馬市内で半日、車を走らせてわかったことは「何も終わっていない」という事実。
地震、津波の被害に、更に東電福島第1原発から漏れ出した放射能の被害が加わり、あまりにも被害の範囲が大きくなり、いつしか地震、津波の傷痕のことが頭の中から薄れていっていた・・・
僕が訪れた南相馬市原町では、津波が沿岸から1km~2km地点の内陸まで達し、あらゆるものを破壊してしまった。
「あの日から8ヶ月半が経って、津波の被害を受けた沿岸地域はどうなっているのだろう?」
正直、うまく想像できないまま現地に入って、現実を目の当たりにして呆然と立ち尽くしてしまった・・・
カメラのファインダーを覗きながら、涙が溢れてきた。
たった一回、数時間だけ現地を見ただけでは、きっと上っ面のほんの一部しか見えていないし、何もわかりはしないのだろうと思うけど・・・
「写真撮って、どうするんだい?」と地元のおじさんに声をかけられて、
あまりの動揺に「あっ、いや・・・」と、一瞬言葉に詰まった・・・
「収束してきているって空気があるかもしれないけど、実際は違うだろう」
「今でもこういう状況であることは知らない人が多いと思うので、僕はこのことをみんなに伝えなければいけないと思いました。」
震災や原発事故の被害は、今も現在進行形で続いています。
そして、復興にはこれから長い時間が必要だと感じました。
2011年が終わりに近づいていますが、『3.11』を2011年のトップニュースとして「大変な一年だったね」と振り返るのではなく、来年以降も続く問題、みんなで力を合わせて乗り越えなければいけない問題であると、強く強く認識しなければと感じています。
■11月28日に見たもの・・・
南相馬市へ向かう途中、飯舘村役場を訪れた。
朝、人々が動き出す時間であったが、人の姿を見かけることはない。
南相馬市役所へ
福島第一原発の30km圏内ではあるが、人々は普通に生活しているように見える。
しかし、市役所前の通りを警察車両、自衛隊車両が頻繁に通過するのを目にすると、事故を起こした原発からそう離れていない場所であることを認識させられる。
南相馬市役所に足を踏み入れると、ここが被災した地であることを改めた認識させられる。
20km圏内・警戒区域への立ち入りを規制する検問
しかし、そのすぐ外側ではお店が営業中・・・たくさんのお客さんが食堂やコンビニを訪れていた。
JR常磐線 磐城太田駅と近くの踏切
駅は何ヶ月も使われていないため、ホームや線路に雑草が・・・
近くの踏切は電車が通らないため、遮断機の棒が取り外されていた
街中に残された船
津波の被害を受けた老人介護施設
海から2kmほど内陸に位置する
ここより海側は、津波によって何もかも破壊された
車も無残な状態のまま停められている
『あの日から8ヶ月半、2011年11月28日に南相馬市で見たもの その2』へつづく
南相馬市内で半日、車を走らせてわかったことは「何も終わっていない」という事実。
地震、津波の被害に、更に東電福島第1原発から漏れ出した放射能の被害が加わり、あまりにも被害の範囲が大きくなり、いつしか地震、津波の傷痕のことが頭の中から薄れていっていた・・・
僕が訪れた南相馬市原町では、津波が沿岸から1km~2km地点の内陸まで達し、あらゆるものを破壊してしまった。
「あの日から8ヶ月半が経って、津波の被害を受けた沿岸地域はどうなっているのだろう?」
正直、うまく想像できないまま現地に入って、現実を目の当たりにして呆然と立ち尽くしてしまった・・・
カメラのファインダーを覗きながら、涙が溢れてきた。
たった一回、数時間だけ現地を見ただけでは、きっと上っ面のほんの一部しか見えていないし、何もわかりはしないのだろうと思うけど・・・
「写真撮って、どうするんだい?」と地元のおじさんに声をかけられて、
あまりの動揺に「あっ、いや・・・」と、一瞬言葉に詰まった・・・
「収束してきているって空気があるかもしれないけど、実際は違うだろう」
「今でもこういう状況であることは知らない人が多いと思うので、僕はこのことをみんなに伝えなければいけないと思いました。」
震災や原発事故の被害は、今も現在進行形で続いています。
そして、復興にはこれから長い時間が必要だと感じました。
2011年が終わりに近づいていますが、『3.11』を2011年のトップニュースとして「大変な一年だったね」と振り返るのではなく、来年以降も続く問題、みんなで力を合わせて乗り越えなければいけない問題であると、強く強く認識しなければと感じています。
■11月28日に見たもの・・・
南相馬市へ向かう途中、飯舘村役場を訪れた。
朝、人々が動き出す時間であったが、人の姿を見かけることはない。
南相馬市役所へ
福島第一原発の30km圏内ではあるが、人々は普通に生活しているように見える。
しかし、市役所前の通りを警察車両、自衛隊車両が頻繁に通過するのを目にすると、事故を起こした原発からそう離れていない場所であることを認識させられる。
南相馬市役所に足を踏み入れると、ここが被災した地であることを改めた認識させられる。
20km圏内・警戒区域への立ち入りを規制する検問
しかし、そのすぐ外側ではお店が営業中・・・たくさんのお客さんが食堂やコンビニを訪れていた。
JR常磐線 磐城太田駅と近くの踏切
駅は何ヶ月も使われていないため、ホームや線路に雑草が・・・
近くの踏切は電車が通らないため、遮断機の棒が取り外されていた
街中に残された船
津波の被害を受けた老人介護施設
海から2kmほど内陸に位置する
ここより海側は、津波によって何もかも破壊された
車も無残な状態のまま停められている
『あの日から8ヶ月半、2011年11月28日に南相馬市で見たもの その2』へつづく
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by nekotoru
| 2011-12-02 18:58
| 福島 被害
普段は猫写真家ですが、たまに小さなメディアになって伝えます。おしどりマコさんケンさんの「自分がメディアになろうぜ」一期生?(仮&非公認)自分で見たこと聞いたこと、感じたままにお伝えします。
by nekotoru
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